潮流

ひさしぶりにガッツリ飲んできました。その酔いもガンガンくる雰囲気で書いてみます。

流れ

があり、それはおそらくアイデンティティのあるのものだし、乗れば乗ったで遠くまで行ける、という感触はある。

しかしながら、それが自分のフィーリングとは「少し違う、いや、もう少し」と感じてしまう。

「これがいいのだ」

と、言う。しかしながら「いやそれは僕は…」と思う。

「それは…」という声を大にして議論すべきなのだが、「そういうものか」と思ってしまう。

理解(わ)かる、でもわからない部分もある。

勿論個人的な趣向、好みという部分は大きい。

万人受けするものが素晴らしいとは言わないが、ごく特殊な範囲においてのみ評価されるというのは、どうなのだろうか。宗教、とは言わないまでも、マニアックな感じがする。

と言いつつも、マニアックであっても受け手(一部かも知れないが)の「楽」(=楽しい=シアワセ)を引き出すのであればそれは一つの「成功」であると思う。

十人十色、百人百色。

すべての価値観は否定されるものではないし、価値観がすべての人に共有されるものではない。もちろん、メインストリームというべきトレンドはあるが、それはまた例えば時間によっても大きく変わってくる。下ぶくれが美人と評価された時代もあるように。

個人的には、あと40年ほどの人生。今作ったものが30年後に評価されようとは思わない。評価されたとしても自分はそれを認識し、喜び楽しみ、感じることはできないから。

なので、僕は「今」ということにこだわりたいと思っている。

話を戻す。

価値観、というのは百の色が有るが、その百色をすべて満たそうと思わない限り — というかそれは現実的には無理だ — 自分自身の感覚を頼る、というかそれで通すのが良いと思う。山吹色なら山吹色で、藍なら藍で。

周りの意見を聞きすぎても色はぼやけるし、自己と言うものを前面に出しすぎても押し付けがましいということもある。

しかしながら、すべてはバランス、そのバランスの取り具合というのも結局のところ、個人(作り手)の価値観から押し通すことになるのだろう。逆にだからこそ面白さが出る。価値観の「良し、悪し」は受け手によって評価されるのであって、ダメだと思う人は酷に言えば切り捨てられることにもなるが、それはそれでしょうがない。

今僕が仕事にしようと計画している分野は非常に感覚的な範疇が大面積を占める。ゆえに答えはないし、すべての人間にあてはまる答えは無い。

詰まるところ、自分がどこを選ぶかであって、別に誰の意見に流される必要はないのだろうが、ポリシーがたゆたうのもやっぱり自分の弱さゆえかとも思ったりする。

「揺れる」のは悪いことだろうか?「迷う」というのは確定していない芯として批判されるべきものだろうか?

究極的には三角形の頂点のように、1点に収束していくのが理想だと思う。

しかしながら、少なくとも僕はまだ強い真ん中を持っていないし、時間は不足ている。

強くあるべきか。

それとも弱く、迷い続け、死ぬまで不満足なソクラテスであり続けるべきなのか。

残念ながら、今のところ、答えはまだ全くもって出ていない。

ダメだ。とも思う。様々な価値観を耳に入れすぎて、迷いすぎている。

が、個人の感覚としてそれでも良いと思ったりもする。

というわけで、今のところ僕は、堂々巡りでぐるぐる、ぐるぐるしている。みたいです。

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運営というもの

今回、あるイベントをほぼ主催者として運営してみた。

で、終わってアンケート結果眺めてて思い出したのがTOJ などの運営として頑張っている栗村さんのコラム。
http://cyclist.sanspo.com/303494 (前半のほう)

運営というのはキッチリできた時点で OK であり、そこからの評価は減点でしかなされない、という内容。

今回について言うと、怒鳴り込まれたとか大きなクレームはなかったが、アンケート用紙に書かれたコメントからはどれだけ不満に思っているのかはわからない。逆に言うと、だからこそ怖いし、読んでいて萎える。

確かに運営側としての設定ミス(バスの配分とか)はあったのだが、予算も時間も限られているし、イベントのプロではないので完璧なスケジューリングなんて期待されても困る。

大雨の対策をしろって?それで晴れたら晴れたでバスがなぜこのタイミングで来ない、とか文句が出るのだろう。

とまあ、複雑なイベントの運営なんてするもんじゃないな、と感じたわけで。

今回は参加者に楽しんでもらうために色々お金をかけて工夫をしたのだけれど、運営する要素が増えれば増えるほどツッコミどころが増えるのだ。かと言ってシンプルなイベントにすれば、それはそれで出店側からアンバランスだとか文句が来るし、なかなか難しいのだ。

クレームを気にしすぎる人間には運営は向いてないのかもしれませんね。もちろん意見があったほうがイベントとしては良くなっていくのでしょうが…

と、そこまで考えて、ふと自分が参加者だったときのことを思い出してみると、

苦笑。

「安いとは言え参加費払ってんのになんで xxx が無いの?馬鹿なの?」
「普通だったら yyy が10はあってもいいのに、なんで3つしか用意してないの?」
「なんでこっちの細い道なの?太い方でいいじゃん。」

とか思う時がありましたねぇ。

おそらく参加者が考えるようなことのほとんどは運営で議論しているんですよね。しかし物理的に出来なかったり、都合があったりで切り捨てて1つの決めで行くしか無いわけで。ある程度の参加費では完全満足な運営というのはありえないのでしょう。

というわけで、お仕事としては運営は忙しかったり萎えたりしましたが、いつもとは反対側から物事を見ることができた、という意味では良い勉強にはなりました。これからは参加者としてはおおらかにいきたいですね。

気付いたことがもう1つ。どうやら僕は下っ端の方が性に合っているらしい(苦笑)。

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経世済民

どうも2ヶ月ぶりにブログ更新。といっても2ヶ月前も大した記事は書いていませんが。

この頃「経済」というモノについて考えています。

あ、先に断っていくとちゃんとした経済学は学んだことがありませんので、そのつもりで以下。

> 追記: 以下楽しい文章ではありませんので読まなくて良いです。

政治ではひたすら経済がよくなれば国民の生活が良くなる。だから輸出をして仕事を作ってお金を回して、ということを建前としています。

さて、本当でしょうか。

お金があれば幸せ、というのはまあ否定しないことにしておいて、そのほかの部分。

子供の頃に経済というものを学ぶ例として以下のような話を聞かされました。

  • A国では1枚のTシャツを作るコストが200円、お米は100円。
  • B国ではTシャツは500円、お米は30円。
  • であればA国はたくさんTシャツを作ってBに輸出し、
  • B国はお米を作ってAに輸出。
  • そうすると全体として見た時に生産に関わるコストは低くなり、全体として「利益」となる。
  • よって正しい輸出、輸入をしようぜ!

現実世界と比較すると色々ツッコミどころは多いです。

例えばA国をTシャツ専用国にしたとして、その後為替変動でB米が120円でしか買えなくなった場合。折角儲かると思って米をやめてTシャツにしたのに、という話になります。

一番の問題はコストが低くなったからといって誰が儲かるかというと、輸出入業者であり、実際の労働者では無いのです。いや、買う側としては安く手に入るのでお得ではあるのですが、売る側としては輸出するような力がない限り何の儲けにもなりません。

そういう意味ではトランプ大統領が自国の産業を保護するために関税を、と言っているのも理解できる部分はあったりします。

輸出入業者が儲かれば、彼らがお金を使い、巡り巡って労働者にお金が回っていく、という事もあるらしいですが、随分悠長な話だなあという印象。

ちょっと話がぶれていますが、経済について。

果たして経済が良くなったらシアワセになるのでしょうか。

現在の日本では色々な政策(例えば TPP, 原発再駆動とか)でもって、ある一部分の不利益を被ってでも経済を全体として押し上げよう、としています。

経済上がれば日本国にあるお金が増えて、労働者の賃金も上がる。

といいますが、おそらく最初に儲かるのは出資者と呼ばれる人々(=経済界?)であって、実際に労働している人ではありません。

輸出→設ける→出資者に還元→(タイムラグ)→労働者に伝播?

株式会社という仕組みの上では当然といえば当然。

企業の社長さんもしっかりと利益をだして出資者に還元できる人間であるからこそ偉い立場に指名されているのであって、還元をせずに労働者の給料(=経費)ばかり上げていたらクビになってしまいますから、そんなことはできません。

というのは言い過ぎだとしても、企業というものが出資者の代弁者である限り、できるだけ安い労働力で、できるだけ多くの利益を得る、という本筋は変わりません。資本主義の欠陥?

よって、おそらく経済が良くなったからといって必ずしも日本全体というか特に底辺の環境が良くなるわけでは無いのだろうなぁ,,, と妄想しているわけです。

じゃあどうすれば良いか。別に共産主義に走れというわけではありませんが、少なくとも

「経済が良くなれば良くなる」

というのは間違いないしは眉唾として捉えるべきでしょう。

今日本がやろうとしている政策の大半は、どうせ経済というものの上に胡座をかいた一部の人がウハウハするだけなんだからやめようぜ、ということ。しかも結構大きな未来への負担を伴っているし、ね。

以上。

金とか儲けるとか書いてたら具合悪くなってきた…

次回はもう少し楽しい話題を探しておこうかな。

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バンザイQ&A

寝ていたのに電話が鳴って目が覚めてしまって、という話をしていて、ふと「なぜ昔は電話が居間ではなく廊下にあったのだろうか」と思いつき → 調べてみたらドンピシャなQ&Aがありました。
なるほど、納得。しかし「ちょっとした疑問だけど調べるのは結構大変そうな疑問」がさらりと解決したことにちょっと驚き。ものの15秒。
 
いい時代になったもんです。いや、もっと(もう少しぐらいは)苦労したほうが良いという考え方もありますが、どうなんでしょうね。ぐるぐる。
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ジンくんと子どもと自分

11月の大雪の日に子どもが生まれました。男子。

先日札幌を歩いていて、BookOff にたどり着く少し前のこと。ある看板が目にとまりました。下のような看板。

ジン君(公式HPより screen shot)

ジン君(公式HPのトップより screen shot)

何となく知っていたのですが、「ジン君」というゆるキャラ。

ゆるキャラなのにもうすぐ食われそうだ、というなんというシュール。

公式ホームページの紹介文は以下の通り。

いつも食べられかけている。
にもかかわらず本人はいたって冷静。
「北海道でジンギスカンを食べた方々に、思い出とともに笑いを持ち帰ってほしい。」
という願いから誕生。
お土産としてもらった方にもぜひ微笑んでいただきたい。

なんというシュール(2回め)。

面白い看板だなぁ、と思うとともに、何かに似ている、という引っかかり。少し考えて思いつきました。

うちの息子に似てる…

2頭身とまでは行かないものの、手足の宙ぶらりんで、状況がよくわからずぶら下がっている表情がなんとも似ています。

改めて今見ると、ほっぺが赤いところなんかも似ています。白い服多いし。

というわけで1人でニヤニヤしてしまったわけで。

月並みですが、なかなか可愛いです。

昔父親に「子どもをもつのも良いものだ、面白いよ」と言われたことがありましたが、確かにそうでした。頭のドンドンよくなるペット(ポケモン?やったことないが)を飼っている感じ。1ヶ月目で表情が出てきて、このごろは「ハロー」と声をかけると3回に1回ぐらいは反応して「ハオー」とか何とか喋っています(機嫌がいいとき限定)。

しかし、自分に置き換えてみた時、粗相をするたびにおしめを替えられていたわけで、ああ、これはやっぱり父親と母親には頭があがらないなあと。

そういうことを思いつくきっかけになっただけでも子どもを授かってよかったと思います。いまが可愛いさかりで、大きくなってからが大変だと思いますが…

ま、しばらくは親バカしそうです。

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冬の入り口

12月にもなってしまいました。

今日は本州ではシクロクロスの全日本選手権だったり。仕事、というか研修はおやすみでしたが、他の農家さんのところへバイト、というかお仕事へ。

雪がさんさんと降る中、ワインブドウの枝引きを朝から日没まで。

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枝引き

久しぶりの他の畑は新鮮な感じでした。途中から雪がざんざん降りになって大変でした。ちなみに足元の積雪は45cmぐらい(体感で)。

研修は順調にすすんでいるものの、将来の土地についてはまだ目処は無し。カウントダウンされている気分で少し憂鬱です。ま、焦って気軽に頑張ります。

というわけで近況報告でした。

何を書きたかったか忘れたわけではありませんってば。

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ドンパ

ドンパというワードをご存知だろうか。

漢字にすれば同輩、同学年といったところ。おそらく北海道弁なのか、北大のローカル語なのかはわからない。

要するに自分と同等の位置にある人、というか友達だ。

先日、友達の知り合いと食事しながら話す機会があった。今年の春に、初対面ながらその友達と一緒に家に泊めてもらっている程度の付き合いで、実は会うのは今回で2回め。実は顔ももう忘れていた。ちなみに女性。年上か年下かはよくわからない。

食事と少しのお酒も入りながらワイワイとやったのだが、かなりフランクな感じで話してくれて、こちらも釣られて(?)対等ぐらいの感じで喋ってしまった。お互い敬語はほとんどなく、「気が置けない」とはこういうことを言うのだろうか。

新鮮だな、という感覚があって、それが心地よかった。

高校や大学では同学年同士ならば絶対的対等関係があったが、大学を出てからは上下関係なしの人間関係というのは稀だったように思う。

東京という密集した都市であった、というのも関係しているかもしれない。上司との会話もお互いに敬語、部下的な位置にあるスタッフに対しても敬語、バイトの学生君に対しても敬語。必ず上か下かという位置が存在していたし、加えてほとんど全ての人の名前に対して「さん」を付けていた。

それが息苦しい、というのでは無い。むしろ逆だ。

上下関係は関係性としてわかりやすいし、組織や密着した付き合いの中では必要なことだ、というよりあったほうがスムーズに物事が進む場合が多いだろう。対等というのはけっこう難しい。難しいよりは上下があったほうが「楽」だ。

しかし、今回ドンパ的な関係を経験してみて、これは良いなと実感した。

敬語で喋らなくて良いとかではなく、お互いに気持ちを共有できるパイプラインがつながっている感じといったら良いだろうか。以心伝心と表現するには大げさだが、感覚としては似ていて、それで、お互いの心持ちのベースが揃っている感じといったら良いだろうか。表現が難しい。友達以上、家族未満?

そんなこともあり、対等な関係性は大人としてはレアで、これから利害関係を持つ人の方が増えるだろうが、ドンパになりえるヒトは大切にしたいものだ、と思ったのでした。

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